藤本けいすけの「日日是好日」

藤本けいすけの「日日是好日」

曲がり角の町内会(自治会)

皆さんの街には「町内会」や「自治会」と言った地域組織があるかと思います。法人化(自治体が認定)などによって活発に活動する団体もある一方、全国的には加入率が徐々に低下するなど、そのあり方が今問われています(茅ヶ崎市内の加入率は全体で70%程度で、低下傾向)。

 加入率低下の理由は、「人間関係が煩わしい」、「何のための団体かわからない」、「面倒な役員や係を引き受けたくない」、「地域の人との交流は必要ない」、「回覧板を廻すなんて時代遅れ。スマホで役所や地域の情報は把握できる」、「税金を払っているから、加入しなくても公共サービスは問題なく受けられる」などなど様々ですが、若い世代や単身世帯を中心に離脱の傾向が高い状況にあります。

 議会でも「町内会」や「自治会」のあり方が一般質問などで問われることがありますが、この際その歴史から学んでみようと一冊の本を手にしました。

 その本によりますと、「町内会」や「自治会」の歴史ははるか江戸時代に遡り、時代や社会の流れを受けて様々な形で今日に受け継がれてきたことがわかりました。中でも先の大戦中は良くも悪くも「隣組」=「強固な地縁集団」としての機能が強化され、市民生活に大きな影響(制約)を与えたという歴史があります。

 さらに、戦後はそれらの団体指導者が特定の政治家と手を結び、行政に対する発言力を増すと同時に高い政治力を持ち、保守政党の勢力拡大に貢献してきた事実についても紹介されています。

 そのような歴史的経緯はさておき、我が国の急激な少子高齢化や社会のデジタル化などの大きな波を受け、「自治会」や「町内会」は、今改めてその存在意義が根本から問われているのは間違いありません。

 本書では、今後の処方箋が提示されていますが、私自身は「全員加入という発想ではなく、自由参加型」を基本に、「行政と対等な立ち位置」を保ち、「ICTを最大限に活用した緩やかな情報共有と課題別の地域内連帯」があるべき方向だと考えています。

 さて、皆さんがお住まいの地域ではどのような状況でしょうか・・・?

戦争と平和について考える

先週茅ヶ崎市役所の1Fロビーでは、「戦争と平和」に関する市内小学生の絵画・作文コンクールの入賞作品が展示されていました。いずれも素直で純粋な感性が発揮された素晴らしい作品揃いでした。

 私は子ども時代に祖父母や両親から戦争についての話しをたくさん聞いて育ちましたが、中でも祖父の体験談は鮮烈で、今でもしっかりと記憶しています。

 その内容を少しご紹介しますと、海岸(有明海)で仲間と貝を獲っていた時、米軍の戦闘機が海風を利用してエンジンを切ったまま無音で飛来し、後ろからいきなり機銃掃射を浴びせたため、祖父の両脇に居たお二人が弾に当たって亡くなってしまったこと、そしてその時に慌てて防空壕に逃げた祖父も足を撃たれて大怪我をしたこと(時折りその生々しい傷跡を見せてくれました)、長崎に原子爆弾が投下されたとき、対岸に大きなキノコ雲が現れてびっくりしたこと(何の雲かわからなかった)、近所の小山にも兵隊がたくさん居たが、鉄砲の弾がなく戦闘機の攻撃に為す術もなく隠れていたこと、などです。そして子どもの頃はその防空壕が私の遊び場でもありました。

 なぜに先の戦争は防ぐことができなかったのか・・・。様々な要因があったかとは思いますが、最大の要因は、当時の国際情勢や諸外国の国力について冷静かつ謙虚な把握・分析が欠けていたことと、軍部を中心とした権力集団による意図的かつ強権的な情報統制によって、国民が正しい判断をする機会を奪われてしまったことだと考えます。

 今や時代は打って変わり、インターネットやテレビなどのメディアを通じ、世界の紛争や戦争の悲惨な現実をリアルタイムに知ることができますが、特定の権力集団の巧みな情報操作や隠ぺいによって、私たち日本国民が想定外の戦争や紛争に巻き込まれてしまう可能性は今もゼロではありません。

 私たち国民一人一人がそのことを常に頭の隅に置き、「主権者」としてしっかりと国の進むべき道を考え、選択すると言う「義務」を忘れてはならない・・・。そのことを、子どもたちの作品を通じて改めて認識しました。

中学生から「死刑制度」の是非についてインタビューを受けました。

日知り合いの中学生から、「死刑制度」の是非についてインタビューを受けました。何でも学校の課題研究テーマだそうで、一応大学法学部卒で政治に携わる私に白羽の矢が当たったという次第です。

 「死刑制度」については学生時代にもゼミやサークル活動で議論したことがありますが、全員の意見が一致することのない深遠なテーマでもあります。

現時点で日本の最高裁判例は、死刑制度については憲法が禁止する「残虐な刑罰」には該当しないという考え方等から合憲としていますが、学説など多くの異論や批判的意見が存在します。

 私は、「死刑」自体は憲法が禁止する「残虐な刑罰」に該当すると解釈していますが、他にも①「死刑制度」が重大犯罪抑止に十分な効果を発揮していないのではないか?、②「死刑制度」によって被害者・家族の処罰感情はどこまで満たされるのか?、③果たして冤罪はゼロなのか?、④重大犯罪を犯した者とは言え、贖罪等の機会を奪って良いものか?、⑤先進諸国では「死刑制度」の無い国が大勢を占める理由は何か?(OECD加盟38ヵ国中死刑制度を維持しているのはアメリカ、韓国、日本の3ヵ国のみ)、⑥戦争=殺戮を憲法で否定している日本国において、国家が人命を奪えるという制度は矛盾していないか?、などの観点から、「死刑制度」は廃止すべきと考える立場です。

 真夏の一日に、未来ある若者と真摯な対話の機会が持てたことに感謝しつつ、さて皆さんはどのようなご意見をお持ちでしょうか?

公務員の矜持はどこに?

先日ある新聞記事に、東京地検特捜部の逮捕・起訴事件を巡る取り調べ担当検事の発言内容について詳しく紹介されていました。

裁判を通じて明らかになった被疑者に対する検事の発言内容を例示すると・・・
・普通の刑事事件でも99%有罪や。この事件なんて100やわ。
・検察庁を敵視するってことは反社(反社会的勢力)や、完全に。
・黙秘しても逃れられへんのやったら、どうするべきか。
・自分がここにいる理由が無いのに、と思うのか。理由があるやろが、おらあ。
・家族、どうでもええんかな。破滅的な人生で終わる、それでいいんかな。
皆さん、いかがでしょうか?
これが、最難関の国家試験と言われる司法試験をパスし、司法修習所で研鑽を積んだ正義の守護神とも言われる検察官の言葉だと思えますか?

 日本国憲法第38条には「不利益な供述の強要禁止」等について規定されており、脅迫による自白は裁判の証拠とされないこととされています。

 今や、社会生活のあらゆる局面で「ハラスメント」を無くす取り組みが進められていますが、どうやら一般市民からは見えにくい司法の世界でもその必要がありそうです。

 公務員は「権力」を持つ存在ですが、広く「国民の福祉向上」に努めることが本義であり、同時に日本国憲法第99条によって、憲法を尊重し擁護する義務が課せられています。

 この基本に立ち返り、検察官を含む全ての公務員(特別職公務員である我々自治体議員も)が、今一度自身の役割りを再確認し、誇りを矜持を持って職責を全うすべきであることを求めたいと思います。

茅ヶ崎伝統~“浜降祭”にて

毎年海の日は、茅ヶ崎伝統の『浜降祭』(はまおりさい)。勇壮な御輿が市内各所の神社から海(サザンビーチ)に参集し、波に御輿が浸かった後で、それぞれの地区に帰ります。

 昨日は、理事を務める地元老人ホームに駆けつけ、入居者の皆さんと揃って御輿をお迎えしました。ホームの広場は大勢の方々で賑わい、お祭りムード一色に。

 ぱっと眺めれば、会場は一見日本の「少子高齢化」を象徴するような光景でもありますが、それでも日本の未来を担う子どもたちの元気な姿に、入居者の皆さん方も拍手で大喜び。いつの時代になっても、お祭りは人々の気持ちを高揚させ、一体感を生み出してくれます。

 「少子化」社会ながらも、大人から子どもたちへ、お祭りを通じて「健全な世代交代」は着実に進行中。政治の世界もかくありたいものだと痛感した一日でした。